Essential Studies

20世紀における科学技術の爆発的な進歩発展の結果、自然のあらゆる分野について専門の科学が分化され、それぞれの研究に基づく理論が構築されてきました。これにより旧来の経験や直感を基礎とする考えは一蹴され、科学的知見に基づく「正しい基準」によって生み出されたあらゆる製品や社会制度が、現代の全ての人間活動を支えています。

しかし、これによりいつしか科学はその精緻な解明力ゆえに、全てを説明できる無謬の原理、不変の真理として捉えられるようになり、現在に至っては「世界は科学によって成り立っている」といったような、科学を神の信託と崇める、ほとんど科学信仰と呼んで差し支えない心の状態を持った科学教の信徒を数多く造り出しています。

この科学信仰は、情報伝達が飛躍的に発展した20世紀以降、自然の説明という科学本来の立場を外れて科学を恣意的に用いる人々を産み、意図的に誤用された科学知識は、科学の名のもとに如何ようにでも解釈できるドグマとして生活や教育の場に浸透しています。「○○を食べるとがんになる。」といった生活の中の身近な話題から、共産主義のような国家を巻き込んだ壮大な実験に至るまで、ありとあらゆる分野の根本原理として働いています。
これらのドグマは、人類がその長い歴史の中で培ってきた、様々な知恵や集団のしくみ、心の問題を、科学(的)なある側面のみを捉えて糾弾し、社会から排除することがあたかも人類の進歩であるかのような風潮を広めています。
このことが人を比較で判断する社会へと変質し、そこに生きる人々はいつも何かが足りないような欠落感を抱えるようになり、限度を超えて蝕まれた精神が、さまざまな事件・不祥事を引き起こしているように思われます。

このような中世のキリスト教徒に取って代わった科学の信者たちにより、人間にとって最も大切な心や創造性、精神や行為の多様性の問題は採るに足らない端数として無視され、科学ドグマが理想とする標準モデルからどれほど外れているか、モデルから外れた人間がどれほど異端であるかを審理され、叱責される科学教徒の異端者裁判にかけられるのです。

科学が、科学が生み出した諸々が不変の真実だと、世界の本来あるべき姿だと信じてしまうと、どこかに物事の理想の姿があって、人間はそれを目指して進歩するのだというような謝った幻想に陥ってしまう。

そしてこれは一個人の軽視を引き起こし、人間を定量的に評価・選別する、ヒトラーやポルポトらの求めた「正しい人間」などという悪魔の戯言に耳を貸す社会を必ず作り出してしまいます。

このようなおかしな科学信仰が蔓延する現代だからこそ、心の本質とは何かについて考えてきたいと思っています。